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揺るがぬ自信、電池開発で世界へ 元三洋電機技術者の雨堤徹さん#元記事→■
当時、三洋の研究開発を担った塩屋研究所での勤務を経て、洲本市の電池事業開発拠点で長く勤務した。パソコン、携帯電話向けに小型・軽量のリチウムイオン電池開発に成功した三洋の快進撃を支えた男の一人、といって過言ではない。
だが、一時は日本の携帯電話向け電池市場でほぼ100%のシェアを誇っていた三洋の衰退は、無残だった。技術者を大事にしない。「やってみろ」とリスクを取る気概がない。いったんやり出したら、なかなか方向転換できない。誰も判断せず、責任を取らない。
実は、三洋時代に当時の収入の倍ほどの給与で韓国のサムスンから誘われたことがある。だが、断った。「サラリーマンを辞めて、またサラリーマンにはなりたくなくて」
「韓国や中国の競争力は、ほとんどが日本の技術者からの流出。(焼き畑農業的に引き抜きを続けたことで)めぼしい日本の技術者がいなくなった今は、中韓にとってもピンチなんです。このままでは彼らの技術力もがた落ち」。雨堤は、そんなふうに現状を分析する。
私自身は典型的な理系人間であるが、就職した後にまず感じたのは、理系は物を相手にし、文系は人を相手にする職業につくのだということであった。一般的には、物を相手にする仕事のほうが人を相手にする仕事よりは楽である。したがって、就職直後はたぶん理系のほうが文系よりストレスが少なく、仕事は学生時代の延長のような感じで楽なはずである。#元記事→■
理系の人間にとって事情が一変するのは、就職後しばらくして、チームリーダや管理職に昇進したときである。そのとき、相手にするものが、物から人へと急に変わる。そのときのストレスの大きさは尋常ではない。今まで、人を相手にする訓練を一切受けてこなかった理系人間にとっては、人生最大の難関に直面することになる。
そのギャップを乗り越えられた人間だけが、上に行くことができる。つまり、一般企業のピラミッド組織においては、文系的素養(学問的な意味ではなく人間を扱う術という意味の)を身につけることができたかどうかが、出世できるかどうかの分かれ道となる。
理系的能力は、日本の企業の中では単独では決して評価してもらえない(新人時代以外は)。評価してもらうためには、文系的素養も身につけなければダメなのである。
日本で大企業組織のピラミッドを登りつめ、経営者と呼ばれるに至った人々には、圧倒的に文系出身者が多い。